どうもこんにちは。
きはらたけるでございます。
4月上旬に長崎で坂本龍馬ゆかりの地を巡る旅をしてきました。
※この旅は感染防止対策をして一人で行っています。
坂本龍馬にゆかりのある地は「高知」「江戸」「京都」「長崎」「神戸」などありますが、今回はその中の「長崎」です。
※私の龍馬に関する知識は主に「司馬遼太郎著 龍馬がゆく」を基に龍馬に関係している施設を実際に回ったりネットで調べたりといったものです。
間違っている箇所がありましたらコメントいただけると嬉しいです。
龍馬は幕臣である勝海舟と長崎を訪れます。そこで龍馬の身分ではでは絶対に会えないような土佐藩の重役であった「後藤象二郎」と出会います。
その出会いが後に「大政奉還」につながるのですが、今回は本編とは離れますので割愛いたします。
そして長崎と坂本龍馬で真っ先に思い浮かぶのが「亀山社中」ですね。
もう少しわかりやすくすると「海援隊」の前身の組織です。同じ「海援隊」でも武田鉄矢さんたちのグループとは違います。
という事で今回は私の旅を写真とともに振り返りつつ、亀山社中やグラバー園などをご紹介していきます。
旅行を写真とともに振り返ろうのコーナー
4月5日早朝に名古屋から博多へ移動。飛行機と電車を乗り継ぎ9時半に博多駅に到着です。
約1年ぶりの福岡でした。1年前に来てから福岡の虜になってしまったので今回来れてよかったです。昨年の1月中頃から2月中旬で新型コロナウイルスによる緊急事態宣言や自粛などが行われる前でしたので、中洲に行ったりモツなべ食べたりと楽しい思い出がいっぱいの福岡でしたが、今回は我慢です。
後ろ髪を引かれつつ博多駅から「特急かもめ」に乗って長崎駅に向かいます。
約2時間電車に揺られ無事に長崎駅に到着。お昼に長崎に来たことがなかったので驚いたのですが、長崎は空がとても綺麗。
すごく可愛い路面電車が走っていたので思わず写真を撮りました。
こんな感じの路面電車が長崎市内では沢山走ってます。
龍馬のぶーつ像と亀山社中跡地
のんびり道に迷いながら40分ほど歩きようやく一つ目の目的地である「龍馬のぶーつ像」に到着です。
景観が素敵すぎる!!
少し高台にあるので歩き慣れた靴で行かれる方がいいです。私はサンダルだったので結構しんどかったです。
ちなみにこのぶーつ像ですが、実際に足を入れてみることもできます。ぶーつに足を入れて舵を持ち長崎の街を見ると最高です。グッと来るものがありました。
ぶーつにはちゃんと中に穴が空いていて水がたまらないように工夫されていますので中は綺麗でした。
そして次は「亀山社中跡」。
場所は「龍馬のぶーつ像」から歩いて2分ほど、すぐ近くです。
入り口にはわかりやすい石碑が建っています。
子店長も久しぶりの登場。
写真の右奥にある道から「亀山社中記念館」へ入っていきます。
記念館では撮影が出来るのが入ってすぐの一室のみです。写真が少ないのはご了承ください。
こちらは龍馬が着ていた「紋服」と「ブーツ」の複製です。
大きさから察するに龍馬は当時の人の中でかなり大柄だったようです。
174センチの私でちょうどいいサイズ感ですね。
正面にあるのは「月琴」という琴のような楽器です。
龍馬の妻のお龍が弾いていたそうです。
その隣には龍馬のピストルの複製があります。説明書きの通りですが、寺田屋で襲撃された時にピストルで応戦したそうですね。
後日龍馬が兄坂本権平に送った手紙には、寺田屋騒動時にピストルの回転弾倉を落として見つからなかったので銃を捨てたと書かれています。
こちらは龍馬の愛刀「陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)」の複製です。
こちらも説明書きの通りですが、兄坂本権平から送られたものだそうです。刀身がまっすぐなのでゴツく感じますね。
龍馬の写真といえばこの写真ですよね。
それっぽい台が置いてあって記念撮影ができます。パンダさんを置いてパシャ。
この裏にある部屋は写真撮影が禁止でした。
亀山社中に在籍したメンバーの名前、詳細なども記録されてます。新時代のために命をかけた若者達の想い、そして犠牲の上に現在の私たちの生活が成り立っていることを考えると一日一日をもっと大切に生きないとこの先人達が悲しんでしまいます。
資料には亀山社中の記録や龍馬が近江屋で襲われた時にあった屏風の複製などもあります。
屏風に残った血しぶきに戦いの激しさが伺えました。
亀山社中の概要はこちらです↓↓
亀山社中とは
土佐藩を脱藩した龍馬は幕臣・勝海舟の門人となり、勝塾や神戸海軍操練所に学びました。元治元年(1864年)以降操練所が閉鎖されたため、脱藩者の龍馬と同志たちは薩摩藩に保護され、鹿児島を経由して長崎にやってきます。そして慶応元年(1865)年夏頃、薩摩藩や長崎商人・小曽根(こぞね)家の援助を受け、日本初の商社といわれる「亀山社中」を結成しました。この団体は、龍馬らが最初に拠点を構えた地「亀山」と、仲間、結社を意味する「社中」をあわせてそう呼ばれました。亀山社中の最大の業績は、慶応2年(1866年)に、長州藩のために薩摩藩名義で大量の小銃や蒸気船ユニオン号(桜島丸・乙丑丸)の購入・運搬に成功したことです。そのことが、慶応2年(1866年)1月の薩長同盟締結へとつながり、新しい時代をひらくための足がかりとなったのです。
長崎市亀山社中記念館 HPより引用
長崎市亀山社中記念館HP↓
http://www.city.nagasaki.lg.jp/kameyama/outline/kameyamashachu.html
これ以降に龍馬は土佐藩から脱藩の罪を許されて、土佐藩と連結し土佐藩海から支援するということで「海援隊」という組織に変わります。
次に私た向かったのは「グラバー園」です。
と、その前にお腹が空いたのでお昼ご飯を食べに行きます。
長崎といえば・・・
そうですね。長崎ちゃんぽんです。ちゃんと食べに行きました。
こちらは四海樓(しかいろう)さんのちゃんぽん麺です。
スープに旨味が凝縮されていて見た目は濃厚そうなのですがあっさりしていて、とても美味しいかったです。
チャーハンも食べましたが、こちらも美味しかったです。
四海樓さんはちゃんぽん発祥のお店だそうで、立地もグラバー園に近く、レストランからの展望も良いので長崎に行かれたらぜひ足を運んでいたただきたいお店です。
ちゃんぽん発祥のお店 四海樓公式HP↓
腹ごしらえも済ませたのでグラバー園へ行きます。
四海樓さんを出てすぐ向かいの坂道を上がっていくとグラバー園に着きます。
道中はお土産屋さんが立ち並ぶ賑やかな通りです。坂道ですが周りに気をとられるのでそこまで辛くありませんのでご安心を。
やっとこさグラバー園に到着
そして次の目的地であるグラバー園に到着です。
入口が非常にわかりやすいです。
金沢の兼六園にもこんな感じの石のやつありますよね。
横にはこのようなものもあります。
GLOVER GARDENです。急に洋風になりました。
園内へは写真左側に移る階段から上がっていきます。
入口を通ると素敵なエスカレーターがあり、そこから少し進むとすぐにオシャレな建物が見えてきます。
こちらは「旧三菱第2ドックハウス」と言い、建物内は資料が展示されております。
先ほどの旧三菱第2ドックハウスから少し歩いた場所です。
このようなひらけた場所が園内にはたくさんあり、どの場所からも長崎市が一望できます。
続きましてこちらの建物は旧リンガー住宅です。
グラバー商会に招かれていたフレデリック・リンガー氏の住居で、もともとこの住居を建てたのはトーマス・グラバーの弟であるアレキザンダーだそうです。
フレデリック・リンガー氏は同僚のエドワード・ホーム氏とともにホーム・リンガー商会を立ち上げてグラバー商会の茶葉事業を引き継ぎ、その後貿易・保険・海運事業など多角化し、長崎の明治期の産業発展に功績を残したそうです。
という内容の説明書きがこちら↓
ちなみにですが、「長崎」「リンガー」と聞くとなにかピンとくるものはありませんか?
ヒントは「ちゃんぽん」です。
はい、そうです。
長崎ちゃんぽんのお店「リンガーハット」の名前の由来になっているそうです。リンガーハット公式HPのQ&Aに記載されていました。
リンガーハット(RingerHut)のリンガーは、長崎で広く貿易商を営んでいたフレデリックリンガーという英国商人の名前にあやかったものです。長崎にグラバー園という有名な公園がありますが、ここにはグラバー邸とともにリンガーさんの邸宅「リンガー邸」が建っています。「長崎ちゃんぽん」という長崎の郷土料理を販売するにあたり、郷土にちなんだこの大商人の名前をつけさせていただきました。ハットは小屋とか小さな家という意味で、通して訳すと「リンガーさんの小さな家」となりますね。
リンガーハット公式HPより引用
グラバー園に来たのにリンガーって誰だ?となったのですが、実は普段から耳にしている名前だったんですね。
遠く海を越えてやって来たリンガーさんが今や長崎ちゃんぽんの代名詞といっても過言ではない名前になっているというのは面白いですね。多くの日本人にはグラバーさんよりも耳馴染みがあるのではないでしょうか。
そしてグラバー園の大本命「グラバー邸」です。
こちらはなんと・・・
改装中でした(泣)
(グラバー園HPより画像引用)
令和3年10月末完了予定だそうで、外側から見ることはできたのですが、あまりにも改装中すぎて今回は写真は撮りませんでした。
改装が終わったらもう一度気候が良い時に訪れたいと思っております。
トーマス・グラバーについて触れてきます。
野望を胸に若干21歳で極東の地へ
開国前の日本は欧米から見れば未開の地。そこへ21歳の若さで赴いたグラバーとはどのような人だったのでしょう。母国はスコットランド。安政6年(1859年)に上海経由で長崎に。1861年、グラバー商会設立。龍馬をはじめ長州や薩摩などの藩士たちと交流を深めつつ、日本の革命を予感。幕府や各藩に武器や船舶などを販売し、莫大な利益を得ました。
ある意味で日本の混乱を利用して成功したやり手ともいえますが、時代を見る目があったということでしょう。何よりも危険を省みず未知の大海原を渡ってきた開拓精神、冒険心は特筆もの。その情熱に龍馬も魅了されたのでしょうね。
明治3年(1870年)にグラバー商会は倒産、グラバーは土佐出身の岩崎彌太郎経営の三菱財閥の顧問となり、明治30年に東京に転居しました。
彼の功績は日本にわが国初のものをいくつも伝えたこと。蒸気機関車、小菅修船場(ドック)の建設、近代的な採炭技術を導入した高島炭鉱の経営、ジャパン・ブルワリ・カンパニー(のちの麒麟麦酒株式会社)設立に関わるなど日本の近代化に多く貢献しました。享年73歳。朝食のスープを飲み干した直後に倒れ、そのまま逝去。家族とともに長崎の坂本国際墓地に眠っています。
長崎市公式観光サイトHP あっ!とながさき 引用
あっ!と ながさきHP↓
https://www.at-nagasaki.jp/feature/ryomaglover/top/
冒険心の強いグラバーが日本の熱量ある藩士たちと交流し、新時代が来ると感じ協力することはごく自然な気がしてきますね。
このグラバーの応援がなければ維新は出来なかった、もしくはもっと遅れていたかもしれません。
少なくとも私の大好きなキリンの「一番のやつ」は生まれていなかった可能性が高いですね。
一番のやつ(お酒)は20歳になってから!
この後もう少し風景を楽しんだ後、帰路に着きます。
(写真を撮りたかったのですがIPhoneの電池がほぼなくなってしまった為動画を少し撮るのみでした。)
グラバー園 公式HP↓
世界新三大夜景を見に行くが・・・
迷いに迷ってホテルに戻り夜景に備えてiPhoneときはらの充電をします。
ある程度充電が出来たところで夜景を見るために出発です。
長崎の夜景は「世界新三大夜景」と言われており、夜景を見るためのスポットが複数あります。
今回私が行ったのはその中でも一番有名な場所である「稲佐山」にある展望台です。
稲佐山の麓からロープウェイが出てますので、車がなくてもアクセスは簡単です。
・・・簡単なはずなのですが、ロープウェイ乗り場までの道を間違えてめちゃくちゃ迷いました。
なんとかロープウェイに乗ることができ、いざ出発です。
やっと着いた展望台。そこから見える景色は絶景でした。
画質が悪っ!!
控えめに言っても実際はこの10倍は綺麗です。
子店長と撮った写真はこちら。
もう笑えない画質の悪さです。
ということで、大変悲しいのですが夜景の素晴らしさをお届けする為にフリー素材の夜景を載せておきます。
同じ場所から撮影しているのでより違いがわかりますが、雲泥の差ですね。
めちゃくちゃ綺麗です。
皆さんも大切な人とこの夜景を眺めてみてください。
ちなみに一人(一人とパンダ一匹)だったのは私と近くにいた葉加瀬太郎さん(パネル)だけでした。
長崎の夜景を堪能した後はホテルの部屋でコンビニ弁当に舌鼓を打ちました。
これにて長崎の旅を写真とともに振り返ろうのコーナーはこれで終わりです(尻すぼみ感)
歴史に触れ自然を感じる街
今回は坂本龍馬ゆかりの地を巡りましたが、それだけではありません。
山と海に囲まれる自然豊かな地で、見上げるとそこには抜けるような青空があります。
歴史的に見ると、長い間長崎は日本と海外を繋ぐ窓口でした。フランシスコ・ザビエルが訪れキリスト教の布教活動が行われ、その後日本でも珍しい宗教戦争ともいえる「島原の乱」では幕府によるキリシタンの弾圧・殺害が行われ、第二次世界大戦では広島に次いで原爆投下もありました。
日本の歴史を学ぶ上で長崎を知ることは外せないことであると思っています。
今回は坂本龍馬ゆかりの地で、現代の日本の礎になった出来事や関連した場所をご紹介しましたが、次回は島原城跡なども巡ってみたいと思っております。
次回は長崎新地中華街に行って中華料理をたらふく食べてグラバー園で改装したグラバー邸見て島原行って島原城跡を行って潜伏キリシタン関連の資料館を巡ります。
ということで、結論、長崎めっちゃ良い!!って事です。
最後までご覧いただきましてありがとうございました。
今回の旅はYouTubeチャンネル「パンダ子店長ちゃんねる」で動画としても出します(スケジュールの都合で7月上旬になります。すいません。)
Youtubeで「パンダ子店長ちゃんねる」と検索してみてください。グラバー園の様子はブログよりもわかりやすいです。
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